岡田彰布のそらそーよ踊り
岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球評論家。
2010年からオリックス・バファローズの監督を務める。
インターネットスラングとしての愛称は「どんでん」。由来は、味の素のうどん・おでんだし「どんでん」のCMに出演していたからである(CMの項参照)。電子掲示板などでは、略して敬称を付けた「どん様」の表記も見られる。現役時代は「ノムカン」(野村克也と藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 アマチュア時代
1.2 プロ時代
1.3 コーチ時代
1.4 阪神監督時代
1.5 野球評論家
1.6 オリックス監督時代
2 監督として
2.1 野球関係者からの評価
3 人物・交友関係
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・表彰
4.4 個人記録
4.5 年度別監督成績
5 歌
6 著書
7 CM
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
来歴 [編集]
アマチュア時代 [編集]
大阪市東区玉造(現:中央区玉造)で町工場を経営していた父親が、村山実・藤本勝巳ら阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった[1]。また父の会社では草野球チームを結成し、彰布少年も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った[2]。岡田家では、岡田の小学生時代から阪神甲子園球場の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった[3]。
1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める。
1973年、北陽高校に進学し、1年生時には大阪府大会決勝戦(対PL学園)で先制2ランを放つなど活躍し、夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興国高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。
早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打(自書では10スイング中、7スイングがオーバーフェンスだったという[4])という驚異的な打撃をみせて合格。早大では1年生秋から三塁手としてレギュラーに入り、法政大学の江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。また、1979年第8回日米大学野球では、全日本の4番を全試合任されている(ちなみに3番は東海大学3年の原辰徳)。
なお、早稲田大学は、単位不足のため卒業をしておらず中退である。
大学時代の成績と記録は以下の通り。
リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点、打率.379
(打点と打率は東京六大学リーグ記録)
1977年秋季リーグから5季連続でベストナイン
1978年春季リーグ、対東京大学2回戦で史上2人目のサイクルヒット
1978年秋季リーグで戦後4人目の三冠王
東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は加熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。10月29日のプロ入り表明時に「阪神だったら最高ですが、阪急などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名されたときに考えてみる。しかし、フロントがしっかりし、優勝を争える球団なら行きたい」と述べた[5]。ドラフトでは6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。
プロ時代 [編集]
入団1年目の1980年、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えのもと、岡田に二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[6]。当時は三塁に掛布雅之、遊撃手に真弓明信、二塁手に中村勝広、榊原良行、ヤクルトスワローズから獲得したデイヴ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという[7]。
オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは、シーズン開幕直後から不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷した時も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、さらには妊娠中の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。その後、出場機会が増え、新人王につながったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールがわいたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している[8]。
1981年には初めて全130試合に出場し20本塁打、1982年には初の3割を記録。1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月に足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。
1984年、平田勝男の台頭により真弓が二塁に回ったため外野へコンバート。ランディ・バースの帰国時などに時折一塁も守った。しかし外野手としては事実上この1年のみで、翌年からは真弓と入れ替わりに二塁に戻る。
1985年には選手会長兼5番打者として打率.342、35本塁打、101打点の好成績で、真弓、バース、掛布らとともに球団初の日本一に貢献。特に4月17日での甲子園での対巨人戦ではバース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを行った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく「ヒットでいいという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。
8月には打率.429、10本塁打、31打点でプロ入り初の月間MVPを受賞し、さらに、9月15日の甲子園での対中日戦でサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打と2試合連続サヨナラを記録。バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも1-2で迎えた4回裏2死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へとつなげた。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。
また、同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日本航空機墜落事故で死亡するという悲劇も起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。
1987年は打率2割5分台本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録。
1989年、掛布の引退に伴い大学時代に守っていた三塁にコンバート。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏2死満塁でビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞。1990年からは八木裕の台頭により二塁に戻る。
1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り一塁にコンバートされたが、新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振により先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた[9]。
1993年、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になり、翌1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていた事が明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている[10]。
1995年、出場機会も減り10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に現役を引退。
翌1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合として行われ、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。
コーチ時代 [編集]
1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。
1998年、二軍助監督兼二軍打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼二軍打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)。2000年にはファーム日本選手権で優勝し、2年連続日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。
2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当し、判断の良さには定評があった。
阪神監督時代 [編集]
2003年オフ、星野仙一が健康問題のため監督勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加えジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ・マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、更にジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。
2005年9月7日、中日ドラゴンズとの2ゲーム差での首位決戦において、9回一打サヨナラ負けのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで、クローザー・久保田智之にかけた言葉は「お前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャ放れ!」。岡田に闘魂注入された久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制す。
この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成。奇しくも優勝当日は亡父の誕生日であった。
しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。
11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、見事にサヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。
2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。
2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[11]。
2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。
野球評論家 [編集]
2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送「虎バン」で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。
4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。
評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から「調査委員会」の委員として任命された。通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。
オリックス監督時代 [編集]
2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる[12][13]。
岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となった[14]。
2010年3月31日、対日本ハム戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。
2010年6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった[15]。
このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。
監督として [編集]
監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している[16]。
メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている[17]。
阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している[18]。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのん」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さないという[19]。
選手のコンディションや相性で打順をいじったり、ローテーションを崩すことは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している[20]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった[21]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果だといえる。
ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦、2006年6月1日の対楽天戦の久保田智之、2006年8月31日の対中日戦、2008年7月18日の対中日戦の藤川球児、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦の岸田護に対しての5度だけである。いずれの試合もこれらの投手が踏ん張り勝利している。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている[22]。
自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍監督を長年やっていたためか、二軍の若手選手への思い入れが人一倍強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。「ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである」と『頑固力』にある(同書P74 -75)。
選手起用において個人記録を重視しており、「チームの勝利が最優先であることが大原則ではあるが」という条件つきながら、「監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである」と述べている[23]。金本知憲の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新にも全面的に協力する姿勢を貫いていた。
2008年の終盤に「JFKを酷使した」と批判されたことについては、常に彼らの疲労度を見ながら起用していたと反論し、「彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである」と記している[24]。
日本シリーズやクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。この点は前任者の星野と同様である。
2010年のオリックス監督時、チームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて「優勝」という言葉を封印し、報道陣には「アレ」という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に「僕も『アレ』としか言いません」とまで言わせた[25]。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして「アレしてもうた」の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった[26]。
2010年のセ・パ交流戦ではDH制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。
ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代に通算1勝3敗と外れが先行している上に[27]、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している[28]。ちなみに1回のドラフト会議で1位指名抽選を3連敗したのは史上初[29]。
野球関係者からの評価 [編集]
2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。
2005年の日本シリーズで阪神と対した千葉ロッテマリーンズ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。
野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせ」るJFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[30]。
これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している[31]。
人物・交友関係 [編集]
座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った「道一筋」と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[32]。
口癖は「そらそうよ」。これをモチーフに、「そらそーよ」という焼酎まで作られた。岡田の喋りについては長男からは「主語を抜いていることが多い[33]」、また実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い[34]」と指摘されている。
現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。
クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である[35]。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している[36]。
雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現することが多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。
著書ではストレス解消法として飲酒(現在は焼酎党とのこと)、カラオケ、手品やニンテンドーDSの脳トレを挙げている[37]。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあったという[38]。
小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[39]。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた[40]。
ルーキーの頃に、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[41] 。
サッカー日本代表監督も経験した岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多いこともあり、公私ともに社交がある。武史の方が1歳上であるが、武史側は1年浪人しており、そのため彰布と同級生である。この他、元サッカー選手の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある[42]。
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